昨日の晩はまあまあ遅くまでやってたんですが、昼近くまでぐっっすり寝てるのは僕ぐらいでした。こういうとき徹底的に眠りに甘えるのが僕というヤツなんですよね。もともとロングスリーパーてのもありますけど。
いきなりのひるごはん |
超美味かった。まーチキンバターマサラなんて食べ物が美味くないわけもないっすわね。
食べてゆっくりして、 デリー近郊から来た人たちが服を買うのに帯同したりして(ヴァラナシはシルクが有名らしいです)、
ガンジス河沿いを歩く |
牛も沐浴 |
目的地到着。ガンジス河ビュー。 |
お目当て、美味いと噂のアップルパイ。美味い |
ライムソーダ頼んだらライム果汁とソーダ水が出てきた。そのままの味がする |
ヴァラナシは聖地であり、ガンジスは聖なる河ですが、それだけに火葬場も多いわけです。ヴァラナシ自体の人口規模は120万人で京都より小さいぐらいですが、インドじゅうの多くの人々が聖地ヴァラナシで死ぬことを願っているため(この理由は普通にWikipediaにあります)、火葬場もいくつもあります。ヴァラナシに来た多くの観光客も見ることになるのですが、火葬場では一般的に遺体は布にくるまれ、ガンジスに浸けられたのち川岸で薪の上で燃やされます。覆いなどはありません。川岸で行い、通行人も見ることができる状態、なんなら見られるように少し高めの位置にベンチまで設けられています。
結論、日本人には刺激が強いと思いますね。やはり日本人は死というものを遠ざけすぎてるんかなあという印象を受けます。布一枚にくるまれただけの遺体が外で燃やされる、という形の方が本来、比較的自然な火葬の形でしょ、たぶん。次から次という感じで遺体が運び込まれ、僕の目の前では顔の覆いがありませんでした。それでも親族の方々も含めて、インドの人々には当たり前の光景になっているように見える。つまりやっぱり日本人は人間が生きていていつか死ぬことを実感できるような、ある種刺激が強い映像であったり写真であったり、文だけでもいいんですけど、そういったものを単に刺激が強いという理由だけで過度に遠ざけてるんじゃないかと感じました。死んだ人間は確かに目の前で灰になった、その事実も、特に僕がこのまま無神論者としてやってくためには目の当たりにする必要があったんだと思います。見ておいた方がよい、とかではなくて、必要があったんだと思いますね。
その当たり前の光景を背にして、日本語ペラペラのインド人がたて続けで2人、我々に喋りかけてきました。もうものすごくペラペラ。頼んでもないのに滔々と火葬場の解説を喋ってくれます。日本の話とかにも非常に詳しくて。特にこの人たちはここに居すぎて慣れすぎて、燃やしている方を振り向きもしません。つまり僕は左目では燃える薪を見ながら、右では陽気なインド人を見て、日本の話をしていることになります。要はまあ土産物屋の客引きなわけですが、最終的に歩いて帰っている途中で彼にもう一度捕まって、僕も僕でひょこひょこその土産物屋とやらについて行ったわけですよ。宿の近くではありますが怪しさ満点の人通りの少ない袋小路の路地に連れてかれます。ちなみに一緒にいた友人は早い段階で警戒している様子でしたが...。
これも結論から言うと、後でわかったことですが単純にボッタクリ野郎でした。しかしね、せっかく日本人を二人も店の前に連れてきたのに、インターホンを鳴らしても店番の人は出てきてくれませんでした。あるいは留守か。ボッタクリにやる言葉でもないですが、不運すぎて可哀想になってくる。「今日はアンラッキーだったねー」っつって帰ってきました。哀しそうな顔してたなあ。。。
ばんごはん |
今日もまあまあ刺激的な新参、まあ端的に言うと17歳がやってきて、また話し込んでしまいました。楽しい人間が次から次へとよくもまあ現れますね。すごい環境ですよ。。。
う、牛の沐浴!?凄い。初めて見たわ。
返信削除泳げるん?
いやー泳げないでしょ笑
削除おそらく暑いので肩まで浸かりに行ってるみたいな感じだと思います。。
「ヴァラナシ」なんて言わなくても「ベナレス」って言った方が伝わると思うんですが、日本人なら。
返信削除ベナレスの呼称が現地ではまっったく伝わらんのよ。地図にももはやベナレスとか書いてないし。だからまあバラナシかヴァラナシ、ワーラーナシーなんて表記もあるけどそっちの方がええかなあ、なんて。
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返信削除お〜〜言うね〜〜
返信削除感情が色んな方向に振り回されすぎて、結構言っちゃいましたね〜。タイトル含め、一部長渕剛の「ガンジス」から引用しているというネタ部分がありますのでそれは差し引いてくださいね。差し引いても結構言っちゃいましたけど...。
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